普段私はここの記事などを某チェーン店のカフェで書いている。私の祖父も同じくカフェで趣味の文筆に勤しんでいるようなので、まさに血なのであろう。
しかし今日はいつものカフェではなく、大阪・蛍池駅近くのスタバに浮気してしまう程度には、この記憶が薄れぬうちに当日中に文字として綴っておかねばならないと感じている。
大阪・関西万博に行った。というより現在進行中で旅行の最中である。おそらくこの記事をポストするのはいつものカフェで文章を推敲した後になるであろうが。
iPS細胞から作られた心臓(3cmほどのちいさな心臓が培養液の中でぴくぴくと脈打っていた!)や自動巡回警備ロボットなど色々すごいものを見ることができたが、今回このエッセイの中で主題とするのは、このために大阪に来たと言っても過言ではない、石黒浩教授プロデュースのパビリオン「いのちの未来」での体験についてである。
事前予約3回とも予約が取れず絶望して、今回見られなければ後日人が落ち着いてから再訪しようとまで思っていたのだが、運良く当日予約が取れ無事に入館することができた。

「かがくの ちからって すげー!」という言葉が口をついて出てくることを期待しながら、アンドロイドそのものを見ることを楽しみにのこのこと訪れたのに、悔しいことにそれ以外のところ、アンドロイドの外側のところで泣かされてしまった。
内容について詳しく言及してしまうと体験時の感動を損なうのであまり多くを語ることはできない(というよりぜひご自身で体験していただきたい!)が、あの時の私の気づきというかそれに近しい感想をあげるとするならば。
「アンドロイド」を語るのであれば、我々は「アンドロイドでない者」についてもまた同様に語らねばならなかったのだ。頭では理解していたはずのその事実を、癒えたばかりの傷をまた指で開かれ、じっとりと視線を合わされながらその傷に入念に塩を擦り込まれるような、そんな痛みを伴うような形で改めてわからされた気がした。目の前で緩やかに流れていく映像を見ながら、私は涙を堪えることができなかった。
パビリオンオリジナルのデバイスを装着していたあの間、私たちは間違いなくアンドロイドであった。私たちは自身を他者と相対して視覚から認識することができない。我々が人と対面する時に存在を確認することが可能なのは相手の身体と、自身の自我だけだ。角膜から水晶体を通して自身の四肢を確認することはできても、個人を識別する一番の要である「自分の顔」は見えない。鏡などの道具を使用し間接的な知覚を試みない限り、私は、私を認識できない。自己をかたちとして認識できないのであれば、別に自身がどんな形をしていても構わないかな、と歳を重ねてから思うようになった。流石に世間との乖離が過ぎるとアレなので最低限の身だしなみは整えていたいが。
そうこうしているうちにもうあの時の記憶が薄れてきている。おそらくこうして言語化を試みてしまったからであろう。物事の輪郭をそっとうまくなぞってやらないと、言葉は容易に記憶を捻じ曲げてしまう。とても繊細な作業のため、こういったエッセイを書き始めてからは非常に苦心している。昔夢日記をつけていた時期があったが、それを続けてもなお、起きた時にはほとんど夢の内容を覚えていられなかった。ワーキングメモリが人並みな私にはちょっと難しい作業だったのかもしれない。それらの経験から、パビリオンでのあの体験はやはり夢に近しい類のものだったと言える。もう一度見たい、本当に素敵な夢だった。あの時会場内には甘い香りが漂っていたのだが、またあの夢思い出したさにまんまとパビリオン出口のショップでその香水を購入してしまった。オリジンとフューチャーの2本セットで4,000円弱と香水としては大変お安く、もう1セット買っておけば良かったと若干後悔している。
そうそう、パビリオンでの説明によれば、我々人類は1,000年後には自ら生きたいいのちを選べるようになるそうだ。それなら私は人の形でない方がいいな、と思う。人の形をしていないと、本人の振る舞い方も変わるのだろうか。古代の海の生物ハルキゲニアのような見た目なんてちょっと良いかもしれないと思った。何を考えているかわからない、ゆらゆらのんびりしていても許されそうなあのフォルム。気分によっては話しかけられても気づかないふりをしたとて、それすら気づかれなさそうだ。オウムガイも良い。何だかよくわからないことをとやかく言うやかましい人がいたらサッと殻に篭ってしまえば良いのだ。
何にでもなれると言われてしまうと無限に考えられそうである。自我や記憶の引き継ぎという観点から、ボディは何らかの物理ストレージを内蔵可能な設計のものになることは必至であろうが、となると保険としてのバックアップの存在も必要となってくる。最終的に「いのちの死」はデータ引き継ぎの失敗など不慮の事故によるハードウェアの物理的破損という形に収斂していくのか。それは今でも変わらないか。そしてそれを防止するため私たちの自我や記憶はデータとして国会図書館のような場所に保存されたりなんかもするのであろうか。
隣席でご歓談中の大阪マダムたちの盛り上がりに伴い、彼女たちの話し声がいとも容易くノイズキャンセリングイヤホンを貫通してき始めたため徐々に自他境界が曖昧になり、彼女たちの話し声と自身の脳内発言が混ざってしまい話の落とし所がわからなくなってきてしまった。やはり大阪マダムは強い。1,000年後の姿を脳機能による振る舞いの変化など含めて選べるとするならば、大阪マダムも選択肢に入ってきたように思える自分がいる。なぜならば強い女は掛け値なしにかっこいいからだ。誤解しないでいただきたいが、私は元来駆け引き等が苦手なタイプであり、これは皮肉ではない。以上、これを雑な話のオチとして欲しい。
大阪・関西万博はまだ始まったばかりだ。今回は季節外れの暑さで途中でダウンしてしまった(その分こうして体験を書き留められているわけだが)ので、可能であればタイミングを見て再訪したいと考えている。もしこの文章を読んでほんの少しでも興味を持っていただけたのなら幸いだ。