開業するにあたって今一度自身の制作する上でのスタンスをより明確にしようと考え、いくつか定めたうちのひとつである「インターネット上で顔出しをしない」というルール。
私は自身の顔をインターネット上で積極的に公開することを好まない。それは長くインターネット文化に慣れ親しんできた者としてのこだわりというか慣習という向きもあるが、主たる理由はそれではない。
以前のラジオ放送の中で申し上げた通り、私は自身の作品を鑑賞者が「個人」として記憶されることに喜びを感じる。その上で、私の作品たちを純粋に楽しんでもらうためには制作者の顔はただのノイズでしかなく、それは余計な情報であるとすら考えている。そのため、先日のラジオ放送のアーカイブのサムネイル画像に関しては写真でなく自身で描いた自画像を使用させていただいた。当然ながら大いに美化してある(!)。
インターネット上で指先一つですぐに顔が割れてしまうような、ましてや存在を求められる偶像・虚構を作り出す立場であるはずの私がこの世界に実在しているということ自体、あまり面白くない事実だと考えている。それが一要因となり鑑賞者が幸せな夢の途中で目覚めてしまうなんてことは、私が創作する上で定めたルールにおいて最もあってはならないことだ。
もちろん、これは私が勝手に設定し勝手に遵守しようとしているルールなので、顔出しをしている作家さん方に対して何か意見しようなどという意図は微塵もない。むしろ作品の隣に並んでも違和感のない美貌があることを大変羨ましく、また素敵に思っている。もしこのポストを読むことでご気分を害された作家さんがいらしたら申し訳ない。私もできることならそうしたい人生であったのだが。
人は他者を区別する際、まず纏っている雰囲気、大まかな形、そして最終的に顔を知覚することで相手を識別する。具体的に言えば、向こうから既知の人物が歩いてきた時には無意識に、またほんの僅かな時間で「歩行速度、体の動かし方、服装、体型、髪型、顔」と対象との物理的距離が縮むごとに自身の視力でもって脳に存在する記憶と照合しながら視覚情報の一致を確定するまでのパーセンテージを引き上げていくような形でその特定の人物かどうか判断しようとする。そう、顔というパーツは他者の存在を確定させる要素としてのウェイトの多くを占めるのである。さらに言えば連続体としての情報である「動作」という要素を取り除いた写真という媒体であっても顔の情報さえあれば他者を識別できるのだ。最近ではiPhoneで自身の作品を撮影すると勝手にそれぞれの顔別に自動でソート分けさえされてしまう始末である。
「個」を構成する重要なパーツとしての「顔」、私の作品たちの世界からはその要素(つまり制作者の顔)を取り除かなければならないと感じた。私はピントが合いそうで合わないような、確定されない曖昧な存在でありたいからである。
誰かの人生をひとつの物語として指でなぞり読む時、そこに生々しい実感は伴わないことがほとんどである。他者に対して自分の人生を一から説明して理解を得ようとしたところで、本人と同様の体験をしなければ本当の意味での理解がなされることはない。話半分に聞き流してしまえる程度の物語、私の物語はその位の扱いであって然るべきであり、またそれと同時に私の作品たちは私という物語の一部ではないことをここに宣言しておく。
あくまで彼らの物語はそれぞれ一冊の独立した本という形質を持ち、私自身の物語の本はそのすぐ隣に並んでいる。そしてそれぞれの物語の書き出しを除き、各作品たちの物語の続きは鑑賞者によって紡がれていくべきものであり、私が続きを執筆することはない。
偶像のはずの彼らを差し置いて私の存在が確定されてしまったら、彼らはたちまち私という全集の一部になってしまうだろう。そのような理由から、私はそれをどうにか回避するべく、実在性への小さな抵抗を試みているのである。
その方が良いか、と直感的に決めたこのルール。自身でもまだうまく説明できずに申し訳ない。以上のことから、私はもうしばらく抽象的な存在でいることにする。こんなことを書いておきながら、飽きっぽい私は翌日にでも顔出ししているかもしれないが。
もちろん原則には例外が伴う。まぁなんというか、ドラクエのはぐれメタルのような、以前運行していたドクターイエロー車両のような、リアルで見かけたらラッキー(?)くらいの感覚でいてもらえると良いかもしれない。
もし今後、展覧会などで直接顔を合わせてお話ができたら、それは私にとって何よりも喜ばしいことだ。
最近思想強め?のポストばかりになっていることは反省している。次回はもっとタメになったり気楽に読めるような内容のものにしたいと考えている。ここまで読んでくださりありがとうございました。